第
1
2
最後のサヨナラサヨうであるナラば
、
いざゆかん。
その8
※
伊藤さんは
、
無口だっ
た。
1年近く一緒に働いたが
、
会話らしい会話を交わした憶えがほとんどない
。
当時
、
俺は編集部に関わる一切の雑務をこなしていた。
雑誌が入荷されると
、
倉庫に降りていっ
て、
伊藤さんの運び込みを手伝
っ
た。
それが終わると
、
コ⼁
ヒ⼁
とタバコをご馳走になっ
た。
伊藤さんは
、
大のタバコ好きだっ
た。
倉庫は火気厳禁だ
っ
たが、
始終
、
隠れてタバコを吸っ
ていた。
ずいぶん昔に奥さんにも先立たれ
、
たっ
た一人の息子は海外勤務でもう十何年も音信不通だという話だ
っ
た。
聞いた限りでは
、
友人もいなければ、
趣味もこれといっ
てなかっ
た。
仕事が好き
っ
ていうか、
仕事をするぐらいしかやることがなかっ
たのだろう
。
あの倉庫には
、
出版社がこれまで発刊した、
何千冊という雑誌が
、
うず高く積み上げられていた。
どこに何が
、
どれくらいあるかを、
正確に知
っ
ているのは、
伊藤さんだけだっ
た。
腰はそろそろ曲がり始め
、
雑誌をかつぐのも辛そうで、
﹁
もういい加減引退しろよ
﹂
と陰口を叩く者もいたが、
伊藤さんは働き続けた。
もしかしたら
、
そういうことを誇りみたいに感じていたのかもしれない
。
※
﹁
誰が政治家になっ
たっ
て同じことなのよ。
社会なんて、
変わらないわ
﹂
女は政治も教育も宗教も
、
何も信じない、
と言っ
た。
そして
、
誰にも期待しない、
とも言っ
た。
だから
、
選挙にもいかないし、
いざと言う時も
、
誰にも頼らないのだと言っ
た。
つつつつ
。
手首をつたう血が、
湯に溶けていく。
顔が
、
少しずつ色を失い、
鉛色に近くなっ
ていっ
た。
抜け落ちた血の分だけ
、
体から熱も奪われてしまうのだろう。
女はガチガチと歯をかみ鳴らしながらも
、
喋り続けた。
﹁
心臓がドクンドクんいっ
てるよ。
普段はぜんぜん聞こえないのに、
こういう時
っ
て、
すごい聞こえてくるんだよね。
悲鳴をあげているんだ
。
きっ
と。
このままじゃ
死んじゃ
うよっ
て。
ふふ。
この写真さあ
、
あんたの作品集に入れてよ。
私の名前とかガンガン入れちゃ
っ
ていいから
。
著作権とか、
肖像権とか、
放棄するから。
ろくな人生じ
ゃ
なかっ
たけどさ、
それで、
あんたが有名になっ
てくれたら嬉しいなあ
。
うわ、
なんか、
視界がグルグル回っ
てきた。
ここまではよくいくんだけど
、
この先はどうなっ
てるのかなあ。
ねえ、
私の分まで生きてよね
﹂
※
伊藤さんの死因は
、
心臓発作による突然死だ
っ
た。
部屋の戸棚の中に
、
常備薬が置かれていたらしい。
誰にも明かしていなか
っ
たが、
持病があっ
たのだ。
いつから
、
自分の死を予期していたのだろう。
地震があ
っ
たら、
間違いなく潰れて死ぬだろうな﹂
それが
、
伊藤さんのかねてからの口癖だっ
た。
天井近くまで積み上げられた雑誌を見上げ
、
含み笑いをしながら
、
タバコを吹かした。
あれは
、
逆説的にいうなれば、
そうや
っ
て死にたいという、
伊藤さんなりの願望だ
っ
たのだろう。
願いは適わなか
っ
た。
伊藤さんの葬儀は
、
誰に知らせることなく、
ひ
っ
そりと執り行われ、
その遺体は、
速やかに焼却された
。